2022年8月12日

とっておきの話(その9)


1.戦争と平和の世界

 直撃弾を受け一瞬にして命を奪われた人、焼け落ちた柱の下で助けを求める人たちを目の当たりにしてただオロオロするばかり、夜は空襲に晒される夢にうなされ安眠も許されなかった小学生時代の戦時中。その嫌な一時期は、敗戦を境に一変した。食糧難の時代は続いていたが外国からの支援に支えられて、お腹を満たすだけのものは国内にはあった。夜間爆撃や食糧不足で空腹の毎日を過ごした福岡の五年余りや、その半年近くを占める熊本での疎開生活は、苦しくもあり楽しい数年でもあった。
 「黙ってついてこい」の命令の下、あらぬ方向に連れて行かれた小学生時代前半は、玉音放送の後大きく変わった。「公平」「平等」「個人尊重」に根差した民主主義教育である。今にして思えば、前回書いたような、私が小学生時代後半に受けた「高城先生の教育」はそのお手本だったように思う。
 人間は、演算スピードと記憶量についてはコンピュータにはかなわないが、ヒトは自分でプログラムを作って頭に挿入するしデータを自分で叩き込む。「教育」はいろいろな環境を用意して、どんなプログラムを作るかどんなデータを選択して打ち込むかを個々人に任せる。生徒を規則で縛り付けることはあまりしないで、個々人の判断に任せる「高城式教育」はまさにそのような教育であった。今回は、小学校高学年(1946年から1949年)頃の話である。

2.ストレス解消法

 ヒトは誰でも自分の年代や置かれた生活環境によって様々なストレスを背負い込む。まともに対峙すれば耐えきれずに体調を崩す。幸い人間はこれをやり過ごす「遊び心」という術を身につけている。

①子供の遊び
 敗戦を境に子供たちの遊びも変わった。騎馬合戦、棒倒し、陣取り競争など団体戦で勝ち負けを競う遊びは廃れ、メンコ(「パッチン」という地方もあった)、ビー玉、牛乳瓶の蓋とばし、コマ回しなどといった個人競技風の遊びが盛んになったように思う。特徴的なのは、ルールにしたがって相手を打ち負かしたら戦利品としてわがものにすることができ、財産が増える仕組みになっている点だろう。
 メンコの例を挙げるならば、盤上に置いた相手のメンコ目がけて自分のメンコを叩きつけてその場に裏返すか、盤外へ弾き飛ばすかすれば勝利し相手のものを獲得できる。コマ回しも長く回り続けた方が勝ちという単純なものから、先攻後攻に分かれて、先に回した回転中のコマ目がけて投げて命中させて仕留める(止めてしまう)と相手のコマの芯を戦利品として貰えるというルールもあった。
 牛乳瓶の蓋飛ばしは、より遠くへ飛ばした方が勝ちだが、飛ばし方に指先の器用さが求められた。その頃は、「学校への持ち込み禁止」などという規則はなく、いろいろな遊びが休み時間に盛んに行われた。

②町ぐるみのお祭り
 鹿児島市に夏が来ると、老若男女、会社も家庭も放り投げて「おはら祭」に夢中なる。圧巻は幅50メートルの天文館通(鹿児島市のメインストリート)一杯に広がって「花は霧島、たばこはぁ国分 燃えて上がるは、コハラハァ桜島」に合わせて徒党を組んだ列が華やかに踊る。商店会、会社、町内会、個人であれ団体であれ、参加するに制限はない。誰もがどこかの団体に加わって1~2カ月の練習期間を経て本番を迎える。だから、みんなが知らない一団が現れることもある。「デコン畑でぇ ゲンネコツしやんな、他人がみとんどお はらはぁばれもんど」(これを通訳すると)「大根畑で イチヤイチヤしないで ヒトが見ているから 露見するよ」冷やかし半分に大声で歌っている。

3.野球の普及

 私が野球というものに初めて出会ったのは、小学校5年(1947年)の時鴨池球場であった。駐留していた米軍の仲間同士の試合だった。投げる、打つ、走って球を取って投げる、球の速さに人々の機敏な動きを追掛けるのに首が痛んで目が回った。守る側みんなが手にしている艶があって柔らかにしなるグラブやミット、擂り粉木の様な木刀に跳ね飛ばされる真っ白なボールなど、ルールは知らなかったが、初めて見る全てが脳裏に焼き付いた。庶民に印象付けたこのゲーム瞬く間に全国に広がった。

①小学児童のわがクラスに二チーム
 スマホもない、ゲームもない、カネもなかったその頃だが、子供たちは大勢いた。ないない尽くしの庶民の日常生活の間に、野球は広がった。グローブは紙やズックの布で、バットは角材を削り、ボールはビー玉の周りを糸くずや布で覆い丈夫な糸でぐるぐる巻きにして締め付けた。みんなで自家製のものを持ち寄り、ルールは野原の広さや集まった人数など状況に応じてその都度みんなで決めた。広場が狭かったり、ヒトの集まりが悪かったりすると三角ベースで遊ぶこともあった。近所の子供たちが集まり、あちらこちらに野球チームが出来て試合が生れた。小学校五年の我がクラスでも一軍二軍の二チームができたのも時の流れだった。草野球チームのリーグ戦も始まる。

②父ちゃんがグローブを買ってきた
 手製の道具で草野球に夢中なっていたある日、オヤジが鼻歌交じりで会社から帰ってきた。何時になく御機嫌が良い。兄弟、上3人を呼んでニヤニヤ。いぶかしがる私達を前におもむろに包を開く。一瞬硬直した子供らの目の先にあるものは、新品のミット、グローブ、バットにボールではないか。子どもたちは顔を見合わせ跳びあがって喜んだ。後から考え併せてみると、オヤジには思いがけないことをして人を驚かす癖があった。しかし、その瞬間私の運命が決まってしまった。兄たちがピッチャーで、私はキャッチャー役として屈むということが、暗黙の了解事情となる。
 野球はピッチャーが投げることから始まる。だから主導権はピッチャーが握る。草野球でも同じこと。練習でも、投げられるボールを受けるキャッチャーの役は大仕事である。何が大変かというと、ピッチャーは好奇心から新種の球を投げたがる。コントロールがままならないからキャッチャーは捕りにくい。ミットに収まらず、後ろに転々、これを追掛けるのはキャッチャーの役目で、草むらに転がり込んで行方不明になっても探し出さなければならない。住宅地での練習は裏通りであった。人通りも少なかったが、自動車は全く通らず、車といえば肥樽を積んだ牛車がたまに通るくらいであったから直線道路は絶好の練習場であった。が、球を逸らすと大変。数百メートル後を追うか、流れる小川伝いに泳ぐか、ガラスを割った家主から落ちる雷を避けて平謝りに謝るかの結末である。

③全国中学校野球大会
 全国中等学校野球選手権大会(高校野球大会の前進)も少年の心を躍らせる催しだった。現在の甲子園大会は原則各県一校の出場枠があるがその頃(1946・7年頃)の九州枠は、福岡、東九州、西九州の3枠になっていたと思う。鹿児島は、大分県と宮崎県と東九州地区に入っていた。ところが、大分県のレベルが抜きんでていて、ほぼ大分の指定席となっていた。大分の各校を招待して胸を借りるのだが、ほとんど歯が立たなかった。特に臼杵中学校には戦わずして負けていた。驚くほど強かった。しかし、その臼杵中学校でも全国制覇したことはなかった。上には上がいるのが世の常だ。優勝経験があるかどうかは定かでないけれども、西日本の強豪校としては、鳥取一中、岐阜商業、和歌山中、小倉中、米子中、熊本工業、海草中、倉敷工業など、選手では旧新学制度跨っての三連覇を逃した小倉の福嶋投手の名が記憶にある。

④七高五高の対抗戦
 年に一度、七高五高の野球定期戦というのもあった。長兄、次兄三人連れ立って早朝6時には、家を出た。「連れて行って」と頼んだ手前、眠い目を擦り擦りついて行くのは辛かった。兄たちは普通に歩いてもこちらは駆け足になる。球場は海岸近くの鴨池にあって、ほぼ6㎞はあった。勝っても負けても学生たちは相手側にストームをかけ、火を焚いてその周りを踊り始める。「北辰斜めに指すところ、太平の水洋々と・・・」とシュロの鼻緒の高下駄にマント姿、わざと空けた破れ目から髪を出した帽子を被り、輪になってケンケン(片足立ち)で踊るバンカラな姿を小学生の目は憧れの眼差しで追いかけていた。

⑤都市対抗野球
 庶民の間の野球人気や社員への福利厚生意識高まりが土壌となって、地域の有力企業の野球熱もたいしたもので、鹿児島市内でも、新川組、薩摩木材、専売公社、鹿児島鉄道管理局などで硬式野球チームが結成され、県外から大洋漁業下関、杵島炭鉱(佐賀)、別府星野組などを招待して練習試合が盛んにおこなわれた。迎え撃つのは、地元実業団だ。全国各県で同じような動きが起こった。それはやがて、各企業チームが全国一を決める都市対抗野球大会に発展する。王子製紙苫小牧、大昭和製紙北海道、富士製鉄釜石、常磐炭礦、日立製作所、高崎鉄道管理局、藤倉電線、熊谷組、電電東京、川崎コロンビア、川崎トキコ、川崎日本鋼管、日東紡、川島紡績岐阜、大昭和製紙富士、日本楽器浜松、名古屋鉄道管理局、東洋レイヨン大津、大阪鉄道管理局、中山製鋼大阪、日本生命大阪、鐘紡、大日本土木、富士製鉄広畑、住友金属和歌山、倉敷レイヨン岡山、日本鋼管福山、東洋紡岩国、八幡製鉄光、四国鉄道管理局、電電四国、門司鉄道管理局、八幡製鉄、東洋高圧大牟田、三菱重工長崎、熊本鉄道管理局、西日本鉄道、星野組別府、大分鉄道管理局、日本鉱業佐賀関などが記憶に残っている。
 この大会で選手層は厚くなり、これが下地となって、1950年のプロ野球二リーグ発足に貢献した。例えば、別府星野組で名を馳せた荒巻サウスポウ、西日本鉄道の武末サブマリン、大洋漁業の横手投げ剛速球の江藤投手たち、野手では、星野組の今久留主兄弟、西日本鉄道の宮崎、河野、千頭(ちかみ)選手のほか多数の選手がノンプロを卒業して新しいプロ野球の世界で活躍するようになる。

4.「遊び」が転じて「飯のタネ」となる

 この「遊び」野球に限らずサッカー、ラグビー、テニスなどもそうだが、時を経て技術の高嶺を求めるプレイヤーと彼らが演じる高度な演技を見て楽しむオーディターに分かれて本格的にゲームを楽しむようになる。その先駆けとなったのが、プロ野球だったろう。
 プロ野球が2リーグ制になってチーム数がいきなり倍になる。今ではセ・パ両リーグとも6チーム、合計12チームで覇権を争っているが、最初はセ・リーグ7、パ・リーグ7合わせて14チームだったように思う。読売ジャイアンツ、大阪タイガース、中日ドラゴンズ、広島カープ、国鉄スワローズ、大洋ホエールズ、松竹ロビンズがセ・リーグ。阪急ブレーブス、近鉄パールス、大映スターズ、毎日オリオンズ、西鉄クリッパーズ、西日本パイレーツ、南海ホークスなどがパ・リーグで始まった。しかし、その後経営環境の変化でオーナーが変わり球団名が変わることがあり、今は消えてしまった球団名もある。
 セ・リーグで、中部日本ドラゴンズ、名古屋ドラゴンズ、サンケイスワローズ、サンケイアトムズ、アトムズ、ヤクルトアトムズ、大洋松竹ロビンズ、洋松ロピンズ、パ・リーグではもっと多く、阪急ブレーブス、オリックスブレーブス、近鉄パールス、近鉄バッファロー、近鉄バッファローズ、南海ホークス、福岡大映ホークス、東急フライヤーズ、東映フライヤーズ、日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズ、大映スターズ、大映ユニオンズ、毎日大映オリオンズ、東京オリオンズ、ロッテオリオンズ、高橋ユニオンズ、トンボユニオンズ、西鉄クリッパーズ、西日本パイレーツ、西鉄ライオンズ、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、などがリーグから消えた。
 1950年二リーグ制発足時の主だった選手を思い出してみよう。間違っていたら御免なさい(敬称略)。読売ジャイアンツ投手、藤本、別所、中尾、多田、捕手、内堀、武宮、一塁手、川上、二塁手、千葉、三塁手、山川、遊撃手、白石、中堅手、呉(萩原)、中島、左翼手、平山、右翼手、青田。大阪タイガース、投手、若林、捕手、土井垣、二塁手、本堂、三塁手、藤村、中堅手、別当、西鉄クリッパーズ、投手、川崎、武末、捕手、日比野、一塁手、河野、二塁手、宮崎、千頭、遊撃手、今久留主など、外に、杉下(中日ドラゴンズ)、大下(東急フライヤーズ)、西澤(中日ドラゴンズ)、荒巻(毎日オリオンズ)などが新しい世界で活躍した。

5.巨人に興醒めしたファン

 巨人・大鵬・卵焼きのその頃は、ご多分に漏れず私も巨人ファンだった。「その頃は」というのは、1978年に起こった「江川事件」以来、ジャイアンツの選手獲得方法に賛同できなくなったからである。日本プロ野球界の盟主として「強い巨人軍」は至上命令であるのは承知していたが、手段を選ばない強力選手の獲得方法にはうんざりした。創設者の正力松太郎氏も沢村、スタルヒン両投手入団に際しては強引とも思える説得をして中学校を中退させてまで獲得した過去はあった。しかし、江川の場合は王者らしからぬアンフェアーな手段を採用した。その後も、他球団で活躍中の中心選手であろうとカネに糸目をつけない方法で取り込むケースが多い。けれども、ホームランバッターばかり揃えても日本一になれないでいる。まして、V9の再現は夢のまた夢である。

6.桜島で危うく遭難

 夏休みも終わろうとするある日、長兄が「明日桜島に登ろう」と言い出した。長兄の親友井上さんと私たち兄弟三人で。小規模の噴煙は上がっていたが、その頃は全山に亘って登ることが許されていた。素人の小登山では、水に弁当、磁石と縮尺5万分の1地図を携帯するのが普通だった。当日朝7時、長さ14、5メートルのポンポン船に乗って鹿児島港を出発、約40分で桜島に着いて、北岳を目指して登山開始。円錐形峰が3つ連なる単独山の、直径約4㎞の円形この島、目標の頂は見えているから登りやすい。下山するときは、下りさえすれば海にたどり着く、標高も1100m位だから遭難事故はあまり聞いたことはなかった。ただ島の面積の五分の一位を占める溶岩原に迷い込むと、携帯電話もないその頃は、命を落とす危険があるといわれていた。登山道の整備は殆どされておらず猟師が歩く獣道を辿るほかなかった。ただ一度だけ「この分かれ道はどちらに行けばよろしいでしょうか?」「右は行き止まり、左に行けばよい」と地元の人と言葉を交わしただけで頂上にたどり着いた。
 太陽に近い分、陽射しは強かったが乾燥した風が心地よかった。眼下に広がる錦江湾は晴天を映して、遠くは霞み、手前に来るにつれて青みを増し、真下ではコバルトブルーに、鏡面のように静かに横たわっていた。五つ六つ船影らしきものがあるが、白い尻尾があるところを見ると波を蹴って走っているのだろう。真昼には程遠く時間はたっぷりあったので「探検」気分で直径約300m、深さ約50mの噴火口の底に下りてみる。噴火が止まって何万年経つのだろうか、底に降りる急斜面の赤茶けた岩場の隙間には、何処からか飛んできた種子が根を生やして繁みとなり、風たまりには風化した砂が集まって草むらができている。と、突然霧が下りてくると辺りが真っ白、一寸先も見えなくなる。そのうちに雨粒が落ちてきた。雨脚は急にひどくなり、あっと言う間にずぶ濡れ、全身震えはじめる。寒い。が、幸いなことにやがて雲が晴れ、お天道様が顔を出した。夏の日差しは強い。やがてずぶ濡れのシャツごと体が乾き始める。山の天候変化は激しいことをこの時経験した。火口の縁に戻り、食事を終えて下山に移る。だが、これが「往きはよいよい帰りは恐い」の山下りの始まりだった。

つづく